【音楽は、神仏の声か】

今年は、高野街道をよく歩いた。
堺の大小路から高野山の女人堂までテクテクと飽きもせず歩いた。
街道には多くの神社仏閣がある。有名な、あるいは名門と言われている所も有れば、名もない神や仏が座する所もある。
そう言う所に来ると人間ておかしな者で、祈るともなく手を合わせている。これからの長い道中の安全を祈願したり、あるいは日常のささやかな願いを祈っている。

お地蔵さん

神仏の前に額ずき柏手を打ち鈴を鳴らし、あるいは鐘を打って自らの願いを聞いて貰いたいと神仏を呼び起こしている。
高野街道を歩いていて、神社仏閣は言うに及ばず路傍のお地蔵様まで数えると、限りないほど今年は手を合わせお祈りしてきた。
しかしながら、一度も「神や仏の声」を聞いたことがないし、その返事も聞かせてもらっていない。神や仏は、我々の願いを全く無視しているのであろうか。

もし神や仏がこの世に居て、我々に何かを語ってくるとすれば、「その声」はどのようなモノであろうか。ふとそんなことを考えた。
私は「神や仏の声」はコンサート会場で聞く「音楽」のようなモノではないかと思っている。

「音楽」には「神や仏の声」が反映しているとは思われませんか。
祝福された声や悟りの世界でしか聞こえない声が、聞こえてくると思われませんか。

歌声もまた、我々が神や仏に何かを語りかけている声と思われませんか。
言葉にもならない言葉「独り言」を繰り返し喋っている子供たちは、自分の思いを「神に語りかけている」ように思われませんか。
いかがでしょう? 私にはそのように思われます。

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作曲家はその「神や仏の声」を作り出し、声楽家はその「神や仏の声」を聞かせ、聴衆に感動を与えていると思われませんか。
今年もまた年末には「神や仏の声」の代表である『おお友よ! この歌ではなく もっと喜びに満ちた歌を 』聞きたいと思っています。

重要なことを忘れていました。
夜学の歌謡学校に通学しマイクを片手に「神や仏に語りかける」ことが好きな私ですが、最近は休学状態です。その内に北新地の夜学から出席日数が足りず退学処分にされ、閉め出されるのではないかと危惧している昨今です。今後は、気を取り直して大いに勉学に励んで行かなくてはと思っています。
「人生 生涯学習!」を実践するためにも。                  野寄 史郎

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