大阪からJR神戸線に乗って武庫川を越えると、海側の窓から、屋根屋根の向こうに2本の特徴的な塔飾りが見える。
国道2号線戸崎町の交差点から北へ1本入った、静かな住宅地に向かって、広い敷地に囲まれたかつての名ホテルが、ゆったりと静かに時を刻んでいる。
正面に堂々とした晴れやかさを演出している2本の塔は、フラッグがはためくポールと厨房や暖炉からの煙突を隠す装飾を兼ねている。
ボーダータイルに覆われ、左右にホールと客室のウイング棟を従えた重厚感のある北側。一方、南側は広い庭に面して、波模様など多彩な浮き彫りが施され、くつろいだ華やぎがある。
洋風を基調としながらも、ここぞという場所に和風の素材やデザインが活かされ、全体の力強さに落ち着いた安らぎを醸し出している。
1階西ホールの奥まったところは、手の込んだ装飾に囲まれ、天井には市松格子の障子が配された光天井になっている。
周囲の緑に溶け込む緑色の瓦は淡路島で焼かれたもの。宝塔が趣を添える。
庭につながるプライベート感覚の小ホールに置かれたつくばい。伝い落ちて流れる水の音が、時折、水琴窟のように澄んだ音を響かせるという凝った設計だ。
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甲子園ホテルは、関西の財界人たちの働きかけにより帝国ホテル開業の7年後、昭和5年(1930年)にオープン。「東の帝国ホテル、西の甲子園ホテル」と並び称された。
設計は、帝国ホテルを担当したフランク・ロイド・ライトの弟子、遠藤新。もう1人、帝国ホテル支配人時代にライトを招聘し、甲子園ホテルの支配人となった林愛作の存在を忘れるわけにはいかない。
名門の風格、やすらぎとホスピタリティに包まれる理想のホテルをめざした、建築家とホテルマン。その思いを外装や内装のモチーフとなった「打出の小槌」に見ることができる。
(一対の四角いオーナメントに「打出の小槌」が浮き彫りにされている)
おそらく甲子園に近い打出浜にインスピレーションを得たのだろう、モダンにデザインされた「打出の小槌」は宿泊客や宴に集うゲストの幸を願う視覚的なメッセージとなっている。
すぐ横には白砂青松の武庫川、敷地の南側には大きな池があり舟を浮かべて月を愛でるなど風流を楽しんだという。茶室やテニスコートもあるリゾートホテルであった。
皇族や内外のVIPに愛され、山本五十六元帥、ラストエンペラーの溥儀も宿泊し、あの伝説の野球人ベーブ・ルースも訪れた。
開業14年後の閉館、終戦、戦後へ
大正から昭和の初め頃、洋風スタイルへの憧れと共に花開いた阪神間モダニズム。その象徴とも言える甲子園ホテルは、しかし開業後14年でホテルとしての幕を下ろす。
1941年12月に始まった太平洋戦争が終焉を迎える前年の1944年、甲子園ホテルは海軍病院として接収され、終戦後はアメリカ進駐軍の将校宿舎とクラブとなった。
その後、長い間国有財産として大蔵省の管理下にあったが、1965年、歴史的な名建築の存続を願った武庫川学院に払い下げられた。
大規模な改修を経て、現在では武庫川女子大学建築学科・大学院建築学専攻の校舎「甲子園会館」として健在だ。生涯学習の場としてのオープンカレッジも開設されている。
<ひとこと>
ライトの建築といえば、芦屋にあるヨドコウ迎賓館(旧山邑家・別邸)が思い起こされます。旧山邑家・別邸は、帝国ホテルの設計のために来日していたときに依頼されライト自身が設計しましたが、実際の建築は弟子の遠藤新らの手によって進められました。
斜面を活かした旧山邑家・別邸はあくまでも個人住宅ですが、甲子園ホテルの「打出の小槌」を見たとき、個人住宅の室内や廊下などを彩った「葉」のモチーフと重なって見えました。
「有機的建築」を標榜したライトとその弟子は、まずこれから創り出す建築空間について、それを象徴するタネのようなもの1点に凝縮させた。そのタネこそが「葉」であり、遠藤新の「打出の小槌」なのだと感じました。
まるでオペラ、一大交響曲のような総合芸術。無からわくわくさせるカタチ、空間を創り出す建築は究極のクリエイティブワークだなぁ…と、ディテールまで心を尽くした甲子園ホテルの贅沢な空間で、しばしとろ~んとした時を過ごさせていただきました。
◎アクセス
JR甲子園口駅から徒歩10分
◎見学希望の方は、事前に予約がいります。
事前に電話で日時の相談と予約が必要です。
(見学日ほか詳細は、下記を参照してください)
〒663-8121 兵庫県西宮市戸崎町1-13 武庫川女子大学 甲子園会館
TEL0798-67-0079 <庶務課直通>
文責:◎オバンスタナカ◎、写真:toto-photo