生まれ育った河内長野市三日市は昔から高野街道の街道沿いにあって3日に市がたつので、三日市という。
明治維新のさい、五条か高野山のほうに向けて天誅組の人たちが通っていった。と母が母の祖母から聞いたという。みんな15~6の若い男の子ばっかりだったそう。
また、母が子どものころ(昭和のはじめ)、高野さんでの春のお祭りの時期には、おせったいといって草餅と白いお餅を袋に入れて、朝5時ごろ門口をあけてお参りする人に渡していたそう。
そんな西高野街道を歩いて、いろいろ歴史的なことも交えながら、本にしてくださいました。
それぞれの町には、道があり、街道と呼ばれるものもたくさんありますが、摂津、河内、和泉から高野山へとつながった古の道、「西高野街道」に少し興味をいただけたら、ぜひ呼んでいただきたい書物です。
歩くためのガイドブックとなっていますが、かなり歴史的な説明も多く、読むだけでも結構興味をそそられます。
以下は、書物から。
高野街道には、東高野街道、西高野街道、中(上)高野街道と呼ばれる三つの主街道と下高野街道があった、
東高野街道は、古代の官道の一つであった南海道がその前身と言われており、四つの街道の中で最も古くから開けたと考えられる。京都と高野山を結び河内国を縦断して南下。途中、暗越奈良街道、長尾街道、竹内街道などと交わっている。街道は、京街道とも呼ばれ、洞ヶ峠(八幡市・京都府と大阪府の境)を越え、八幡、淀、下鳥羽、上鳥羽を通り京へ上って行く道である。
逆に京都からは、石清水八幡、洞ヶ峠を越え、枚方市に入り、生駒・金剛山の西麓の星田(交野市)中野(四条畷市)、中垣内(大東市)、石切(東大阪市)、瓢箪山(東大阪市)、恩智(八尾市)、安堂(柏原市)などの諸都市を南下して貫き、石川と大和川の合流点を渡り、河内国府跡(藤井寺市)、道明寺(藤井寺市)、古市(羽曳野市)、喜志(富田林市)、富田林寺内町(富田林市)を経て、錦織一里塚(富田林市)に至り、長野(河内長野市)で西高野街道と合流していた。