朝青龍の人間性は「嘘つき」である。この一言に尽きる。
相撲界でも初めてと思われる「脱税」をし、肘と腰の病気と嘘を書いた「休病届」を提出し、夏巡業をサボり、しかも無断で帰国し母国でサッカーに興じていた。その結果が「二場所の出場停止」と「謹慎処分」である。しかもそれによって精神的負担が大きく「解離性障害」と診断された。これで病気にならなければよっぽど図々しいと言わざるを得ない。嘘をつき、ばれたら精神的ショックが大きく病気になったと公言した。横綱ともなる人間が本当にこんなに精神力がなく、しかも弱いものであろうか。まるで子供と同じレベルである。その結果、何の説明も謝罪会見もせずに、しかも自分は悪くないと言いたげにふてくされて帰国してしまった。相撲協会も病気としかも母国での療養が必要と診断されれば、人道的見地から帰国させざるを得ず、またさせることを朝青龍は、十分に読んでの行動と見受けられ、すこぶる後味の悪いことになってしまった。
脱税をし、巡業をすっぽかし嘘を付く人間性。この根底には、本人がいくら否定しようが「強ければ何をしても良い」との考えがあるからではないのか? この社会では、強ければ何をしても許されるのであろうか? 人間の品格が落ちてしまう行動が本当に許されるのか。しかし世間の意見は、「許す、許さない」と意見の分かれるところとなった。
また謝罪が遅すぎる。直ぐにすべきである。どんな人間でも罪があれば直ぐに謝罪する。謝罪などする気がなかったからこれだけ遅くなってしまったのであろう。謝罪してから母国に帰国すべきである。しかし今頃なぜ?今頃謝罪するのは、本人は「辞める覚悟」があったからではないのか。?それを相撲協会が「引き止めた」のではないのか?
しかもあの程度の謝罪なら帰国する前に出来たのではないのか。ふてくされ詫びもせず帰国し、悪いことをしたとの反省もない人間。責任もとれない人間。横綱と言う角界の頂点にいる人間が、これでは、お粗末過ぎる。人間としても人格としてもお粗末すぎる。
でもこんな人間が許される。これが今の角界の、日本のレベルであろうか。
謝罪せずに帰国することは、角界からの「追放」を覚悟していたから出来たのではないのか。角界に残りたければ、問題を起こした時点で直ぐに謝罪していたハズである。謝罪しなかったのは「追放」を覚悟、あるいは逆に「角界は自分を追放をしない」と高をくくっていたからではないのか。「追放を覚悟」または「追放されない」と読む駆け引きではなく、自ら責任をとるぐらいの「覚悟」が欲しかった。何れにしても品格のない行動である。また、日本への帰国当日、モンゴルの空港に集まった日本の報道陣に対し「下がれ!、下がれ!」と不機嫌そうに日本語で言ったと言う。「下がれ!」とは何事か。自分の立場を何と考えている。また巡業地から次の巡業地までヘリコプターを飛ばせと言ったこともある。いったい自分を何と考えているのか。理解に苦しむ。しかもこんなことをする人間を抱えている相撲協会にも同じ疑問が湧いてくる。
このように品格のない、またそれを求めていない角界、あるいは横暴な発言の数々、さらには「出げいこ」で相手に怪我をさせる問題等々、このような人間が角界にいては、将来また同じような問題を引き起こすであろうし、本人が起こさなくても、そのマネをする力士が出てくることも危惧される。
「横綱審議委員会」は、自ら認めた横綱を角界から追放してしまったら自らの責任が問われると判断したためか、あっさりと朝青龍の復帰を許可している。委員会があのレベルでは、何をか言わんである。
WBCフライ級タイトルマッチで反則行為を繰り返した亀田大毅は、二度も謝罪している。一度目は、坊主頭になって会見に臨んだが一言の発言も無く、途中で退席してしまった。しかし対戦相手の内藤選手には、自宅を訪問して謝罪している。
二度目の謝罪会見は、先月の30日,正に朝青龍の謝罪会見が行われた同じ日に。しかも自らの言葉で語っている。彼の反則行為に対しボクサーのライセンスを一年間停止する処分を受けている。しかし朝青龍はわずか二場所であり、謝罪もしなかった。
ボクシング界と相撲界、それぞれが自らの責任の取り方に対する考えが大きく異なることを我々に教えてくれた。。
亀田大毅は、二度の謝罪、坊主頭で未成年。
朝青龍は、成人のしかも角界の頂点に君臨する人間。ちょんまげは切らず。成年。謝罪会見は当初無し。しかも国外に逃げ、母国に帰国してしまった。あなたは亀田と朝青龍、どちらの考え、行動に賛同しますか。
いずれが立派だと思われますか。
そもそも相撲は、スポーツかそれとも単なる見世物か。
日本古来の武道である「剣道、柔道、弓道、槍術、乗馬」等こそ国技では? しかしこれらは国技と言わない。強いて言うなれば「お家芸」と称されている。
しかも相撲は国技でもないのに「国技館」で行われ、その他の日本固有の武道は「武道館」で開催されている。ここに「相撲は国技である」と国民を欺いた「国技」なる言葉が生まれてきたのである。
人のモノを盗っても返せば無罪か。窃盗罪にならないのか。人を刃物で傷つけても回復すれば無罪か。傷害罪にならないのか? 人の物を盗り見つかれば謝り、返せば済む。万引きしていても返せば済みますか。罪は問われませんか。罰は受けないのですか。こんな大問題を起こしておきながら謝罪すれば済む。イイや、彼は謝罪もせずにふてくされて帰国してしまったのである。
こんな男を、こんな横綱を許せますか。日本の古来からの神事をここまで傷つけられて本当に良いのですか。
私は許せません。
閑話休題
相撲の歴史は古い。
伝説では、野見宿禰(のみのすくね)と大和国当麻の住人・当麻蹴早(たいまのけはや)の二人が、力比べをし、宿禰が勝つた。そのため彼は後に「相撲取りの祖」とされるのである。
その後、平安時代には宮中の年中行事として相撲は行われていたと伝えられているし、また室町時代には、現在のような職業力士も既にいたと言われている。
元来、相撲は、奈良時代より続く神事である。神事であるから「神迎え」や「神送り」の神事が今以て行われている。
明治42年(1909)、両国に「国技館」と言う名前がついた相撲専用の建物が建ち、それから「相撲は国技」と言われるようになった。
しかし、相撲は国技ではない。神事である。従って女性は土俵に上がれないし、上がってはならないのである。大阪府の女性知事が大相撲春場所で知事杯授与のため女人禁制の土俵に上がりたいと言って波紋を投げかけたことがある。「21世紀は女性の時代。大相撲も新しい形を目指すいい時期だと思う」と一方的に発言している。この知事など相撲の歴史が全く分かっていないからこのような無茶を言うのである。しかも上がれないのは男女差別などと言って。しかし差別の代表である府立女子大は相変わらず温存させている。男女差別を論じるなら、まず府立の女子大を閉校または男子にも入学許可を与えてから土俵問題や男女差別問題を論ずべきである。自からの無知、ワガママを暴露するような発言は厳に慎むべきである。
この女性知事の発言を「正」と考えるならば、修道院や尼寺も当然、無くさなければ男性差別をしていることになる。
しかし世界は、男性しか登れない奈良の大峰山を世界遺産に登録した。世界は、「宗教的なもの」まで否定して、男女を同一視しているわけではない。このことを女性知事は理解できていないのである。
閑話休題
相撲は各大名に抱えられ木戸銭を取り「興行、見世物」として江戸期から特に発展してきた。従って「勝つこと」が最大の目的であって「人格の形成」や「品格」は、必要ではなかった。勝って儲かれば良い。そのため今だに、勝った力士には懸賞金が渡されているのである。
あらゆるスポーツのなかで当事者に懸賞金が支払われるスポーツはない。同じ格闘技でもボクシングにはないし、レスリングにもない。勿論剣道や柔道にもない。相撲のみが未だに純粋なスポーツになっていないのである。この点だけを捉えると、単なる興行、見世物の段階から相撲は未だに脱却できていないのが現状である。
一方、剣道や柔道あるいは馬術や槍術などは、将軍や大名、武士たちの支配階級が「自らの人格」を高めるために修練を重ねていくべきものであった。従って、それは木戸銭をとって行う見世物でもなかったし、自らの生活の糧を得るためのモノでもなかった。相撲とは育ちが違うのである。そして、それらに何らかのルールを付けることによって武道は、近代スポーツへと脱皮・成長し、国民に親しまれてきたのである。
しかもそのうちから、柔道はオリンピック種目へと発展していった。 しかし現在では同じスポーツの相撲のみが、「興行」とか「巡業」とかいって、そのワザを見せるために観客を募り、観戦料を取り、「見世物」あるいは「ショー」としての性格をもって未だに行われている。しかし明治以降、心ある人々によって「勝てばよい」と言った考えから離れ、この悪しき流れを裁ち切り、人格形成を相撲界は目指してきたのでは無かったのか。
「相撲道」と自ら名付け「相撲」に「道」を付け人格の形成を目指していたのでは無かったのか、今回の朝青龍が先人の長い努力を断ち切り、また江戸期の「勝てばよい」相撲へと引き戻してしまった観がある。非常に残念である。
やはり相撲は、所詮その程度のモノであったか。
しかしながらそのようなスポーツでも「相撲道」と言われるように人格形成の一つの手段として明治以降考えられてきた。元来江戸時代には相撲は各大名に召し抱えられ、大名のために戦わされてきた。それを力士自らが人格形成のスポーツとして位置づけ「強さ」に「人格」、「品格」を兼ね備えたものとして、国民もまたそれが「相撲道」であり「国技」であると思ってきた。
しかしながら現在の角界には「品格」がなさ過ぎる。相撲教習所でいったい何を教育されているのであろうか。力士教育が全くないがしろにされていないか。また外国人力士に対しても、日本の社会で生きていくなら日本の文化をもっと教えるべきであるし、力士も知るべきである。
「勝てば良い。強ければ良い」のであろうか?「誇り」や「謙虚さ」はどこへ行ってしまったのであろうか。
「横綱は強いだけ」で決めていないか?「品格」まで求めていないのではないか。ここに問題があるのではないか。その結果このように「品格のない」横綱を生み出したのではないのか。
「責任を持って行動をすること。これが品格がある」と言う。強いだけで自らの行動に責任が取れなければそれは「品格がない」と言う。
相撲は、相撲取り(力士)から親方になり、その内から理事や理事長に選出される。しかし相撲協会は外部の意見を反映しにくくしている。
一方、野球は選手から監督になるが、そこから上はない。オーナーや球団社長がおり、外部の意見が反映するように組織されている。しかし角界には無い。
朝青龍問題が生じないまでの角界は、もっと「品格」を求めていたのではなかったか。それを国民も角界も共に求めていた。従って、国技でもないのに国技と詐称していても国民は、何も問題にしなかった。
日本古来からある多くの武道は、日本武道館で行われ、しかも剣道も柔道も金を取って試合をしないし、見せもしない。相撲のみが観客から金を取って自らの技を国技館と言われる所で見せるのである。
柔道がオリンピック種目になって久しい。日本生まれで今後オリンピック種目になる可能性のある競技に「相撲」や「駅伝」や「剣道」などがある。相撲の力士の出身国が多様化し、競技よりも力士の国際化が始まっている。また「駅伝」も海外からの出場者の多くが参加し、これもまた国際化してきたと言える。しかし相撲の観戦者から観戦料を取るのはやむを得ないとしても、競技者同士が賞金を懸けて戦うのは如何なものかと思う。会場の維持費などのために観戦料を徴収せざるを得ないのはやむを得ないとしても懸賞金とは全く意味が異なる。相撲協会の再考を願いたい。こんなことをやっていたは、何時までたっても見世物であり、品格や国際化などとんでもないことである。
ここに至って朝青龍によってその考えは全く否定された。「強ければ良い」の一点に尽きる行動をまたしても行っているのである。「強さ+品格」はどこに行ったのであろうか。かって支配階級が自ら律した「品格」や「人格の形成」を力士そのものが、またしても「品格は不要」として否定したのである。このままでは相撲は何時までたっても「品格」のない見世物に過ぎず、スポーツでもなければ、国際化やオリンピック種目への発展など、夢のまた夢に過ぎなくなってしまうのである。
美香一 正好