子どもの頃、近く(?)に”シンチューグンのヘーシャ”と呼ばれるところがあった。
なんじゃ、そりゃ?と思われるかもしれないけれど、進駐軍の兵舎のことだ。
と言っても、映画や当時のニュースで見るジープに乗った外人さん兵士が行き来していたわけではない。
昭和30年代の初め頃だったので、進駐軍はとっくに引き揚げていたのだけれど…
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小学生時代から散歩好き。おじん趣味の少女であった。
当時住んでいたミニ団地は、大阪市の南の方にあった。
団地から南へ子どもの足で小1時間ほど歩いたのだろうか、家がポツポツあってトマトやなす、菜っぱの畑が続く道をまっすぐ歩くと、T字の行き止まりになった。
びっくりするほど背の高いポプラ並木が横に連なり、錆びた鉄条網で囲われていた。
戦前は学校か工場か、何かの施設が接収されて、そのまま放置されていたのだろうか。
強風が吹いた翌日、ポプラの根元に雨に打たれたスズメの死骸が落ちていた。
散歩の終点は、大和川の土手。川原が白い砂地で、対岸の堺側には牛が草をはんでいた。
(今も仕事で堺東に行く途中、大和川を越えるとき南海電車の窓にへばりついて見てしまう)
●小学校5年と6年の夏、1人でチンチン電車で浜寺の水練学校に通った。
浜寺の広大な松林には、進駐軍の元住宅が点在していたのが電車から見えた。
●大学の9年先輩の方から聞いた話では、神戸大の文学部・理学部・農学部がある敷地は「六甲ハイツ」と呼ばれ、進駐軍の高級将校用の住宅地として造成されたのだそう。赤や青の原色のモダンな家が、焼け跡を見下ろすように建っていたという。
ちなみに復興後、電気が使えるようになってからも、大石川を挟んで西側と東側が奇数日と偶数日の1日交代で通電されたのだとか。
「夜、川の右側が明るくて、左側は真っ暗、次の日は交代になって…面白い眺めだったよ」
大先輩は往時を思いだして、クックックッと笑った。
私は”戦後”に育ったんだなぁ、と今あらためて思う。。。。。。
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進駐軍:第二次世界大戦後、ポツダム宣言の執行のために日本占領に当たった最高司令官ダグラス・マッカーサー陸軍元帥率いる連合国軍。GHQとも呼ばれた。総数は20万人、1945年(昭和20年)9月~1952年(昭和27年)4月28日の日本国との平和条約発効まで7年近くを統括し、日本の最高統治権限を与えられていた。
(Wikipediaを参考にしました)
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睦子 様
メチャメチャ懐かしい!! 名門三稜中学でも同窓だった小川です。天野サチさんのHPからWEBの存在を知りまし。あそこの進駐軍のキャンプには背の高いポプラがたくさんあって、チャンバラ用の刀を作るために盗みに行ったり、進駐軍が撤収してからは草野球に興じたりと思い出が一杯です。
先月、高校の同窓会に出席しました。大阪を35年前に離れ、東京と海外の慌ただしい生活をしていたためほとんどの皆さんとは高校卒業以来初めての再会でした。
千葉県柏市 小川 様より