ある日の献立は、キャベツの千切りを塩もみしてウスターソースであえたおかず。
また、ある日は、大きな(巨大!)人参やゴボウをゴロゴロ炊いた煮物。
(私はちり紙で人参を包んで机の奥にしまった)
妹は、キュウリとちりめんじゃこの酢の物の日、器の底にちりめんじゃこの目が
いっぱい沈んでいたので、確か当時、ちりめんじゃこ嫌いになっていたと記憶している。
大阪の南の市立小学校の例だけど、他の地域はどうだったんだろう?
* * *
独特のニオイがまだ鼻の奥によみがえるコッペパン。
鼻をつまんで飲み干し、息をしないでパンを口に入れた脱脂粉乳。
粗雑に作られたおかず。
それでも、必要な栄養をまかなってくれた。
給食の時間、ふと運動場に目をやると、
はだしで鉄棒にぶら下がっている男の子がいた。
給食費が払えないのだと知った。
遊びで空腹をまぎらしていたのだ。
遊びに行くお金はあるけど、給食費は払わない親が増えているという今。
この差は、コワイ。
* * *
先日、取材に武蔵野市を訪ねた。
「マイスタームラカミ」という、手作りのソーセージを店内の工房で作り、
作りたてを販売しているお肉屋さんだ。
そこが地域の小学校の給食で、
山形県の有機農法による自家飼料で育てた豚を1頭買いしたものを、
必要に応じて使えるように預かっている。
地域の誇りだという武蔵野市立境南小学校の給食は、
有機・無農薬・無添加の素材を用い、和食中心の健康メニューで、
木のテーブルとイスが並ぶレストランのようになごやかなランチルームに移り、
温かいものは温かく提供される。
ちなみに、「森の展覧会」という(イベントの?)日の献立は、
もりもりごはん(茸や山菜のごはん)/森のきのこ汁/
きつねの福袋/木の実の甘露煮/きびだんご。
すべてが手作りだ。
既成の先例にとらわれない発想をすれば、こんな給食も可能なんだ!!
この学校に入れたくて、引っ越す家庭もあるという。
給食をもっと大事にしてほしい。そして、給食費を払いなさい!!(と言いたい)
<戦後再開された学校給食の経緯>
昭和21年(1946年)12月に戦時中中断されていた学校給食が東京等の一部で試験的に再開され、昭和22年(1947年)1月主要都市の約300万人の児童にララ物資(日系米国人の日本向け援助団体による援助物資。脱脂粉乳など)を利用した学校給食が開始される。 昭和24年(1949年)、ユニセフ(国連児童基金)から脱脂粉乳が贈られユニセフ給食が、また昭和25年(1950年)、アメリカ合衆国から小麦粉が贈られ都市で完全給食がおこなわれた。昭和29年(1954年)、団塊の世代が7歳、入学の年に、教育の一環として学校給食法が施行された。
(※Wikipediaを参考にまとめました)
給食当番というのがありませんでしたか。エプロンと三角巾をして。バケツで運ばれる野菜スープとかシチュー。好きな子には好きなおかずを沢山つけ、キライな子にはキライなおかずをたくさんつけませんでした?
給食のパンを休んだ人に届けるというのがありませんでしたか?
ザラ半紙に包んで、途中放り投げたりして届ける頃には結構不潔になったり。
あの食器アルマイトですか、 それが違ってたらもう少しおいしそうに見えたかもしれませんね。先日イタリア料理の野菜スープ、ミネストローネとかいうもの、どこかで味わった味だと思い、これは〜〜〜給食の味では〜〜〜少なくとも内容的には同じでした。(大阪市南東の小学校)Orangeboze